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茶道

努力の甲斐あって有力財界人の関心を呼び、茶道が女子の教養科目として組み込まれた。

明治ご時世になると、封建仕組みが崩壊し、諸藩に庇護されていた各流派が財政的に困難に陥るようになった。

彼らの茶の湯は「貴紳の茶の湯」と呼ばれ、家元の教えに従って実践する「流儀の茶の湯」と趣を異にし、自らの趣味によって独自の茶の湯を楽しむことを特徴とした。

ボストン美術館中国日本部に勤務していた岡倉覚三(天心)がアメリカでTheBookofTea(『茶の本』)を1906年(明治39年)に出版解説した。

他にも明治の同頃合に鳥尾得庵、田中仙樵(後に大日本茶道学会を創設)は、利休が千住宅三流派など各流派へ茶道を分類たのではなく元々一つの流であったと唱え、多くの流儀の茶人達の旧幕ご時世からの伝承を一堂に集めて研究し、その成果を一般人へ公表する事で日本の茶道を再び創り出そうとした。

このため茶道は、本来のわび茶とは別の「女子の教養」としての要素もゲットし、実際では素晴らしい着物姿でのエレガントな茶会が自然になっている。

この出版は欧米文化人の関心を呼んだ。

岡倉は同書において、茶道を「世の中的に認められている唯一のアジア的儀礼」であると位置付け、西洋において「午後のお茶」(afternoontea)が大切な役割を果たしている事を指摘している。

そうした中、裏千家十三代円能斎鉄中は一時東京に居を移して茶道再興に努めた。

こうした家元が広く庶民層を対象に茶の湯を教え広め、それを経済基盤として確立するのは大正ご時世以降と考えられるが、明治期の上層階級においては、旧大名や近世からの豪商に加えて新たに台頭した維新の功臣、財閥関連者らの「近代数寄者」とよばれる人々が茶の湯の復興をひと足早く先導した。


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